昭和51年06月24日 朝の御理解



 御理解 第81節
 「氏子、十里の坂を九里半登っても、安心してはならぬぞ。十里を登りきって向こうへ下りたら、それで安心じゃ。 気を緩めると、すぐに後へもどるぞ。」

 安心してはならん、と又はこれこれなった時が安心じゃ。宗教の入口の願目はここだと思うです。仏教では安心立命と申します、一日お取り次を頂いてお参りさせて頂いておりますから安心しとりますと、もう金光様を頂いとりますから、安心ですと言う様な安心は本当の安心ではないぞ。と言うておられるのです。10里の坂を9里半登ったからそれでも安心と言う事じゃない。皆さんが頂いておる安心というのは、安心というものではないんだと先ず銘々が思わなければならない、そりゃ勿論私を含めてね。
 まぁ安心感というでしょうかね、安全感というでしようか。その程度のものでありましょう。向こうへ下りたら安心じゃと、いう安心ではないと。昨夜お祭りが終わって部屋に下がらせて頂いておりましたら、秋永先生たちが夫婦でやって見えた、あのいろいろ信心話している所へ、なんか昨日ここで御祭り後に 会議があっとりました、会議が終わって高橋さんが見えられた。
 繁雄さんを含めて、まぁ4、5名でまぁ信心のよもやま話でございましたが、どうでもひとつおかげを頂いて、あぁいう宗教に知識をもった、言うなら宗教学者的な人達が合楽に集まって、そして金光教祖が教えておられる、いわゆるこの神誡、神訓、御理解 金光教教典という物の新解釈のものを、誰が見ても解り誰が読んでもお陰の頂ける教典にしなければならない。
 それはキリスト教でいう新約聖書のような、又は仏教特に創価学会があらゆる宗教学者を集めて、そしてわざわざアメリカ辺りの神学校ですかに留学させて、いろんな信心のいや勉強させてそして、仏教はこんなにも立派なんだ、いや法華経がこんなに立派なんだと言う事を、皆んなに解るような説明を加えなければならないと言う事に。一生懸命全力を上げておる。先日もそのう創価学会から出ていおる。
 「聖教新聞かなんかを見せて頂いたら、実に見事にその法華経の一説一説が、今の現在の者でも解るように、しかもなるほどこういう解き方をしたなら、人が救われるだろうと助かるだろうと言う様な、見事な表現がしてある。他宗派でも読んどって非常に魅力を感じる、金光教の者にはこういう魅力を感ずる物が一つもない、と言った様な意味の事を話ております。私もそれは大変共鳴致しました言でした。
 そういう例えばおかげを頂くために、祈願詞にありますように、計り知られぬみ力に天地の間のもの皆は、生かされて生きてありその道理知を知らずしてと、例えばそういう道理が分かり天地の間に生きておる。生きとし生けるもの、生かされて生きてあると言う事実を私共がです。知ってからというて、ほなら迷い苦しむと言う事がないかと言うとそうじゃない。知っただけじゃいかんのです。、
 生神金光大神様を差し向けたまえて、神御心こそ尊けれ、教祖金光大神様は実意丁寧神信心の生活を進め給いて、世に試なき御影を受けたまいと、ここん所が頂けなければならんのです。だから世にためしなき御陰を受けられたと言う事は、まぁ沢山な財とか物とか健康とか言った上に、おかげを受けられたと言うのではなくて、いうならば向こうへ下りたら安心じゃというおかげを受けられたのだと、私は思います。
 そこで私共が信心させて頂いて ここ2、3日申しておりますように難儀を拝むと言ったような表現でまっ聞いて頂いたね、養素拝山という事です。いよいよ豊かなおかげの受け物を創る。その心の状態はね山を拝むという、言うならば修行を拝むと言う事、まぁそれを繰り返しまぁこの2、3日申しております訳ですけれども、高橋さんそういうお話の中に「だいたい親先生拝むと言う事はどう言う事ですか。」と言う質問がありました。皆さんどうですか。
 私は毎日神様を拝んどる、特に最近では今まで難儀と思うておったその難儀を、神愛と思うてね。例えば病気と思うなら病気を、病気を拝むという事が拝む事じゃろうもんと、まぁざっと言やそうです。けども高橋さんが求められるところの、拝むと言う事はど言う事かと言う事は、もっと深い意味があると感じましたから、そりゃまぁなかなか大変な難しい質問だね、というてまぁいろいろ話した事でした。
 高橋さんが通っておられる、ところの拝むと言う事が、本当に分かったら、そしてそれが自分のものになった時に、初めて今日皆さんに聞いて頂いておるね、今あなた方が頂いておる安心と言うのは、そりゃまだ本当の安心じゃない、油断をすると元ごろごろと、元に戻ってしまうものだ。安心じゃない安心感じゃない、あっ安全感だ、安全感んだというのですね。昨日幹三郎がその事に一寸触れて、お話しておりました。[無常の時が風を嫌わん]と、金光大神の道は無常の風に時を嫌わす程しの道なんだ。
 もうそこに定まっておる運命があっても、その定まった運命を打破してゆく。そして新たな良い運命に切り替えていけれる程しの信心だと言うの事をです、例え周囲から見たら無常の風が見える様な事でも、それを神風として受けて行けれる信心、そこにも歓喜があるという信心、そういう歓喜の生涯でありたい。例え第三者から見たならば無常の風に、見えるような問題であっても、それを神風と受けられる信心を目指したいと、言った様な意味を話してました。
 いよいよ本当意味に於いての、拝むと言う事を分ろうとしておる姿勢であり、又は精進をしておるなら精進だと言う事になるのです。先日から結実という「何でしたかね高橋さん結」「結合」と言う事をお知らせ頂いた、結ぶ結び合うと言う事ね。私共と神様とが相対し、そしてそこに結び合うと言う事。という風に聞いて頂いて、その日の研修をさせて頂いておる時に、だいたい結合と言う本当の意味はどう言う事だろうと、言う事になり字引を引かせて頂いた。
 そうしたら二つの物が一つになると言う事だけではなくてね、二つの物がこの合っただけではなくて、それが一つになると言う事なんです。二つの物が一つになると言う事、だから高橋さんが求めておられる所の拝むと言う事は、二つの物が一つになって喜び合うという時、初めて本当の意味においての拝むと言う事になるのであり、拝み合いと言う言にもなるのである。石川の抱き妙賀という紋がありますよね。こう妙賀をこうして合わせたようなね紋があります。あれを抱き妙賀と言います。
 妙賀というのはこう賀びの妙です、思わず声が発せられる程しの妙です。はい結合と言う事はそう言う事なんです。そういう境地まぁいうならば私がね、三時半から四時の御祈念そして四時の御祈念、御祈念中に私が感じて居る様な事だろうけども、これを説明してあげるにはいけんけれどね、まぁそんなものだろうねと言った事でしたけれども、まぁ解ったか解らないか分らんけれどもね、拝むと言う事はそう言う事なんです。
 そこで私は又改めて、今日の昨日晩の事ですよね。お説教のいうなら、お月次祭の後のお話の中にね、猫が犬を生んだと言う話をしましたよね。あれはどういう意味を表現しょうとして、私があんな話をしたか、わかるかと言って一遍聞いたけど、なかなか解らなかった模様ですね。皆さんどうでしたか。只面白い「ほう」ちゅうごた風なふうで、私が皆さんに聞いてもらったのじゃないのです。妙な結合だったら、妙な物が生まれるという意味なんです。
 今教団で言われておる、いわゆる新発足の、いうなら祈願詞なら祈願詞にでもあらわれてるわけですけれども、頂く信心から産みなす信心と、どげなもんでもお産なさるでも良いと言う事では決してないのです。だから妙ないわば結合しよりますと、それこそ猫が犬を生むような妙賀に見るような妙な物が生まれて来るわけです。 へんてこな物が生まれて来る。無理に押さえつけて結合したようなものでは、だから本当の良いものは生まれないと言う事なんです。自分達はよかろうけども相手は合点しとらん。
 それでは本当な良い物が生まれると言う事ではならない。お互いが日々柏手でして拝んでおる、その拝んでおることだけが、本当の意味においての、いわゆる拝むと言う事ではない。神様とも又は私共もね、それこ有り難いというか勿体無いというかね、そういう交流が起こって来る様な中からしかいい物は生まれて来ない。そういう素晴らしものが生みなされてくる時にです。初めてその生みなされた物を実証として証として、金光様の信心さしてもらえば、こういうおかげが受けられる。
 こういう生みなす働きが生まれて来るんだと言う風に、人にそれこそ愛を持って語っていく事が出来るわけなんです。 私はこの81節をもうぎりぎり難しい 今まで聞いて頂いたお話の一番最高の所をと言う風に聞いて頂いた。九里半登っても安心してはならんぞ。だから皆さんの場合はただ、金光様の信心をしとるけん安心だとか、もう安心しとりますという。そいで甘んじといてはならないぞと言う事なんです。
 高橋さんいつも質問される所のです。本当に拝むという本当に拝めておるという時に初めて神様が拝んで下さるのです。本当に拝めておる時に神様が拝んで下さる。そこから妙賀のいうならばおかげ。ただ結合しておるというだけではなくて、いつも神様とこう相対しておるというだけでなくて、いやただ天地の道理が解かり、計り知れないお恵みの中にあるんだと言う事が分り、生かされて活きておるというそういう道理が分かっただけで、ほなら本当の安心というものが生れるものではないという事。
 実意丁寧神信心の生活を進めたまいてとあるように、教祖様がそういう信心を進めたもうた。そういう信心をもう限りなく進めようとする姿勢、からしか本当の結合本当の妙賀というものは有り得ない。天地の道理が分かったから、ここに天地の新たな生き方が分かったから、そいで有り難いのですけども、それでなら安心してはならぬというものが、九里半登っても安心してはならんという事だと思います。
 向こうへ下りたら、いうなら信心による所の教祖様が、世にためしなき御影を受けたまえてという、そういうおかげをお互い目指させて頂いて、一切のいうならば昨日の御理解で申しますとです、木の切り株に腰を降ろしても、立つ時には礼を言う心持ち、いうならば自分に都合の良い事悪い事一切が拝める信心、だから私は病気をしているけれども、その病気のおかげで信心が出来ますというて拝みよりますというのは、まだまだ本当の拝みではないて言う事。
 本当に拝むと言う事はそれこそ歓喜に満ちた喜びの声が、自ずとほとばし出るような事でなからなければ、交流した喜びではないと言う事。拝んでおっても拝まれてないと言う事、拝み拝まれて始めて向こうへ下りたら安心じゃ。そういう信心が身に付いて来る所からですね、いうなら安心立命と言う様な意味においての安心が頂けるのだと思います。限りありませんね。
 だから、だからもうこれだけの分かったから、これだけ修行しよるから。それこそどれほどしに例えば信心が出けておっても、これで済んだとは思いませんと言った様な生き方が、信心がいよいよ身に付いて、それが自分の信心の信条ともなって来るお陰を頂かなければならんと言う事になります。「いやぁそげん難しか信心ならばという人があるかもしれません。けれども私共は一生掛かっても、いやあの世の魂の世界に入っても、やはりその事を目指させてもろうて精進していくのが。
 無限大のおかげにつながっていくことなのですから。高橋さんがえらい事言われる、えらい事を質問された、私昨日改めて又思いました。私自身も只拍手してこうやってすりゃ、それが拝む事たいと言う事ですけども、本当の意味においての拝むと言う事は。拝み拝まれて始めて拝むと言う事、拝む値打ちと言うものが生まれて来るわけです。只天地の道理が分かった。生かされて生きておると言う道理がわかった。
 だから感謝させてもらあなならんと言う程度の、いうなら道理がわかったからというてやはり、迷い苦しむ人々がほなら金光様の信者の中にも、どのくらい迷い苦しんどる人があるやら分からん。只なら今度の新運動に参画させてもろうて、それこそ実意丁寧愛を持って人に語っていくと言うてもです。そこから生まれてくる物がです、猫が犬を産むよう物どんが生まれてきた、ほんじゃいけん。妙な信心じゃいけんと言う事です。
 まぁ今度の事について前から色々頂いておることやら、あれやらこれやらを思い合わせてみるとです。それこそ神願成就と言う事の意味の、おかげにつながらないものがね、いつでしたか前の蓮根掘り後ろは密林いわゆるジャングルのようなもの、所今金光教で新発願されておる所の新運動というのは前の蓮根掘りを埋め立てて行く様なものじゃと頂いたんですね。それではお陰の世界をむしろ狭めていくようなもの、蓮根掘りそのものがお蔭の限りない世界である。
 後ろのいわば密林これを開墾していく、これを開拓していくね、世界こそいうなら金光大神の道を広げていくと言う事になるんだと、それを前の蓮根掘りを埋めようという。どう言う風に埋め立てていくか、もう本当に人間の力で埋める事ですからそれこそまぁたかが知れておるわけであります。けれども裏の山の方を開墾していくと言う事は、自分自身の心を開墾していく事です。ですからここには人間の力はそれだけですけどもそこから限りないおかげの世界が開かれてくる。
 いうなら人力を捨てて神力に縋るという生き方ですから。神力無限と言われる、そのおかげにつながるような信心でなからなければいけないと言う事であります。今日はここにある二つの安心と言う言葉が出てまいりました。81節先の方の安心を私共は頂いておるようなものじゃないでしょうか。そしてこの安心では本当のもではないと言う所から 次に向こうへ下りたら安心じゃという、安心を目指しての信心修行でなからなきゃならんと言う事を、聴いて頂きましたですね。
   どうぞ。